40年近くスペインにいても、帰国するとお袋は、いつ帰ってくるんだいとの言葉を繰り返していました。いつ帰っても、スペインは、あくまで旅先ということで、お袋が住む邪馬台国が、息子の住むところと考えているようでした。スペインにいるとあれが食いたいこれが食いたいと試行錯誤するんだけれども、いざ帰国して、カインズとかの豊富な品揃えのお店に行ってやっぱり日本と、有頂天になっても、またあれだけ食いたいと思った、にほん飯を食いに行っても、そのことに飽きるというのか、慣れてくるとやっぱりマドリッドに帰ろうと思うのは、なぜなんでしょう。私は、長いことスペインにいますが、スペイン人の友達がいるわけでもなし、スペイン語が堪能であるわけでもなく、それでも日本に一時帰国すると、やっぱり日本は、俺の住むところじゃないと、体の奥底からの回答が、帰ってくるのでした。スペイン人は嫌いだけど、スペインは大好きという輩が、結構いますが、私もその部類なのかもしれません。
そういえば、うちの親父とお袋、両方とも60歳を過ぎてから、4回程スペインに来てくれました。なれない飛行機の旅、今、自分もその年になって、飛行機を利用すると精神肉体、へとへとになることがわかり、親父お袋には、改めて感謝感謝なのでした。親父が逝ってずいぶん経ちますが、お袋は、99歳あと2か月で、100歳の誕生日を迎えることになり、10月の飛行機のチケットをゲットしようとした矢先の兄からの電話でした。
マドリッド、フランクフルトそして羽田なんと18時間の旅になりました。行きは満杯,日本の映画を4本鑑賞して、時間をつぶしました。無事到着、リムジンで大宮まで直行、丸一日の旅となりました。やはりソ連の上空を飛べないとなると、昔のアンカレッジ経由の走行時間と類似しますので、コビ、ウクライナの影響は、世界をめちゃくちゃにしていると肌で感じる次第でした。
実家に戻り熟睡次の日を迎えました。次の日は、お袋との面会ということで、少々興奮です。今まで頑なに拒否していた施設が、外国帰りの胡散臭いのが、面会するということをお許しになるということは、やはり事前の知らせが示すように死期が、目前に迫っているということなのでした。たった10分の無言の面会でしたが、足の指圧を、5分ほどして活を入れました。湧泉穴を圧しても、気を感じられなかったので、ゼイゼイという音を交えた呼吸もあと一日かなーと感じた次第でした。
結構末期の癌患者さんの指圧をいやというほど施術してきましたので、この辺の気の動きは、臨床指圧師として十分感じたのでした。胃瘻は、お袋がキッパリと拒否したので、点滴で、栄養を取るという約束なのですが、腕の静脈を探しきれなくなり、足のいたる所に青あざが、痛々しく存在していました.
お袋痛いの我慢して足部から点滴をされて、看護婦さんもつらかっただろうし、お袋も痛かっただろうと想像すると涙が出てきました。鍼灸を昔、博多の先生から教わった時期があり、臨床では、耳針ぐらいしかやりませんが、かなり勉強した時期がありましたので、足部の針の痛さは、今でも忘れられません。
栄養補給も限界一歩手前で、安らかにあの世に旅立ったのは、次の日の夜の19時45分でした。兄貴が、茂が来るのをお袋待ってたんだなーといわれて、お袋さんにお疲れさまと心の中で合掌したのでした。
穏やかな、優しい顔で、皺ひとつなく、まったくもって良い顔をしていました。まったくの大往生でした。やっと親父の所に旅だったのでした。親父も喜んでいるし、お袋も、もうよろしの心境だったんだろうと思います。合掌そして結手。