学生の頃ふらっとスペインのカタルーニャ地方のバルセロナに1年半ほど住んだ時期があります。また熱帯農業の実習でフィリピンのネグロス島のキャンラインという村にある日本人夫婦の農場で一時期お世話になったことがあります。セブ島というきれいな島にほれ込んで日本でバイトをしては、小金をもってセブの島でほんのちょびっとのお金を使い切るまで滞在、お金がなくなるとまた日本に戻り、居心地の良い渋谷の東急デパートに潜り込みマネキンから派遣されてお仕事、6時から東急本店の暇人と終電手前まで麻雀で御託を並べて、いっぱしのギャンブラー。
麻雀メンツが集まらないと、バイト時代お世話になった杉並の人生の師と路地裏の亀八という寿司屋で説教を受けたまわった日々。今思うとまったくもって情けない日々を送っていた時期がありました。丁度、何をやっていいかわからない時期なんですね。
まずサラリーマンは、絶対に慣れないことは判っていました。なぜか、性格として自分より劣る上司がいたら絶対に自分の意見を前面に出してしまう我慢のできない世間知らずのバカだったあの頃でした。しかし尊敬できる上司であれば、惚れたら最後尽くしますね。でもなかなかいないですね。ラッキーで見つけていれば、人生変わったのかな。
家系としては、職人家系で、親父のおばあちゃんは、ヨイトマケの手配師でやり手だったようです。おふくろの親父は、福井から大八車一台で、てくてく東京に上京。つらいトタン屋(戸井作り)で修行、独立して金ができると土地を買い、その土地が新幹線が通るのでいい金で売れたりで、小金には困らない明治生まれの頑固おやじだったようです。おこずかいをもらうために、説教30分正座で聞く覚悟で、おじいちゃんの家に週に一回いやいやながら行ったのでした。説教が終わるとおばあちゃんが、甘いお菓子と、500円をくれたのを昨日のように覚えています。
親父は、兄貴が木工所を派手にやっていたので、それを専務か何かの役職で手伝っていたみたいです。大宮家具センターという名称で店舗展開して、それは一時期、派手にやっていたのを覚えています。娘婿の時代でパンク倒産。やばい時期をくぐっておやじ、おふくろは、放蕩息子を育ててくれたのでした。
結構悩んだ時期がありましたね。何がやりたい、何ができる。自分の一生を賭ける仕事、見つけられない日々。
ふらふら人生、結構あの時期は、苦しかったけど、色々な人と巡り合えたのが財産になっていますね。