ふらふら人生パート3

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 高校時代の仲間は、時間的余裕もあったし、その仲間意識を熟成する時間も環境も整っていたので今でも付き合いのある友が何人もいます。大學の友は、全国津々浦々からの集まりで、急に同じ学科の仲間ですのでみんな仲良くやりましょうといわれても、それじゃー率先して友を見つけようという頑張りの気迫もなく、妙に雰囲気がうつろで、無理しての根性もなかったので、昔を顧みると確かに今連絡を取り合っている友はほんのちょっとです。
 ただ指圧の方でFACEBOOKなどの手段を使って宣伝しているので、もしかしてあの小野田と、連絡してくる昔の知り合いはいますが。実際の所、学生の頃は何しろバイトに忙しく、そして家からの通いということもあり、何の不自由もない高校の延長でしたので、大学キャンパスでの強烈なインパクトはあまり記憶に残っていません。

地方からの上京、地方の大学に入学、こんな立場に自分が置かれたら、もっと強烈な青春を味わっていたのかもしれません。何しろ親の金で大学行って、自宅からの通い、アマちゃんボンボン丸出しの青春の門出でした。
 希望に燃えての青春には程遠い妙に冷めたあの時代だったのかもしれません。将来何がやりたい、どんな仕事を一生の仕事にするかという確固たる自分の意思表示が内からまだ湧き上がって来なかった時代でしたので、何となく悶々と日々を送っていたんだと思います。
 ただ親から金をもらうことにだけは、自称ぼんぼんながら抵抗があったので、暇を見つけてはバイトに明け暮れていた時代でした。ガードマン(夜警)、レストランの給仕、日雇いの土方、日通、結構いろんな仕事の経験をさせていただきましたが、最後はデパートに潜り込みました。夏は涼しくて、冬は暖かい、居心地最高、デパートの派遣店員で一番儲けたのは、婚礼家具の出来高(売り高)制の仕事でした。
 プロの販売員の冷たい目を感じつつ、木の材質から、製造過程、諸々を日々勉強して、徐々に販売を本物にしていったのを覚えています。 お客様の接待法,うけをどうゲットするか、この道何十年のプロにかわいがってもらう機会を得て頭を下げることの意味を教えてもらったのもこの時期です。かといってこの仕事が一生の仕事になるわけがない事は判っていましたので冷めた目で熱中した時期でした。学生の分際で金があった時期で、同学年のクラスメートが子供子供に見えた時期でもありました。あのころの自分は、はたから見てふざけた背伸びした生意気野郎に見られていたことは今確実に理解できます。大学生になりきれず、仕事のプロにもなりきれず、中途半端のふわふわに逃避している時期だったのかもしれません。もんもんの時代ですね。
 何やっても、そこそこまでは、なんとか行けちゃうので、器用貧乏に気をつけろとバイト先のウンチクおじさんに悟られたことがあります。自由でいいやなんて思ってバイトをしているとデパートの本社員の給料に5年もすると追い抜かれてしまう現実もこの頃、肌で理解したのを覚えています。テレサテンのリカバー曲、ハウスマヌカンが身にしみる時期がこの頃でした。
 浮かれ茂はどこに行く。続きは、気が向いたら言うことで今日はジャンジャン。

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