大学3年の夏、農業実習でフィリピンのネグロス島のキャンラオンという小さな村に滞在できるチャンスを頂きました。低開発国の農業を援助する公益財団法人であるOISCAという団体が所有するフィリピンの農場で実習することが移住研に所属する高校からの友の働きで可能になりました。
確かその時のこの団体の理事の一人が前東京都知事の東龍太郎先生(医師)が名をつられていたことを今でも覚えています。大學3年、もう将来の展望をせっせと、、、、そうです、そんな時期に農業実習でちょっとなんて、親に言ったら泣きますよね。
私は親に泣かれたのが、2回あります。一回目は、この時、何を馬鹿を言ってるんだと親父にこっぴどく怒られました。仕事に対するヴィジョンの甘さを今考えると嘆いたんだと思います。都会生まれのお兄ちゃんが南米に移住して農業で生きる。これは確かに夢を見ているとしか言いようがありません。性格としてやってみて、だめの実感がないと諦めきれない性格でしたので、ジャー行ってみるかの単純発進でした。
もう一回泣かれたのは、浪越の指圧学校に行くとお袋に言った時でした。おふくろの嘆きは、なんであなたが、お盲目(めくら)さんの仕事をしなくてはならないの、大学出て、恥ずかしくないの。このカウンターは、ちょっと効きましたが、指圧を日本でやる気はなく海外でやるという計画はまだ、しゃべれなかったので、しょぼんの母には、ちょっとヤバイの気持ちでした。
確かに今は知りませんが、あのころ、海外青年協力隊で、海外に出て帰ってきても、若干のお金が口座に振り込まれて塵も積もればで、200万円ぐらいの蓄えを保証されたと思いますが、何しろ2年の海外在住の空白は確実に就職のチャンスを遠ざける時代でした。しょうがないので民間のグループで再び低開発国に戻って農業指導で暮らすといったケースが現実にゴロゴロしていました。
手技療法の世界も今はカイロの先生がアメリカのカイロの大学を出てとか、カテゴリーも上がってきて、手技療法や東洋医学の実態もマスコミのお蔭で知れ渡って来ていますので、世間も、手技療法師になりたい人に対する違和感もなくなっているはずです。でもあのころのマッサージ界は、盲目者の仕事の確保のための職種というイメージが滅茶苦茶強かった時代でした。
兎に角、格安のチケットをゲットして羽田空港から出発です。梅干し、胃腸薬、正露丸、餞別を腹巻に隠してGO GO.