JICAの黒柳さんの新年のメールでフィリピン(ミンダナオ)の農業普及指導員の池田さんが癌でお亡くなりになったとの情報を頂きました。池田さんとは本当に一期一会の関係でほんの短い期間をミンダナオの農場でお世話になった恩人です。今でも私の脳裏に、はっきりとイメージできる池田さんの姿があります。何故だか知らないのですけど昨日のようなイメージが私のぼけかけた頭にあるのです。
学生時代、熱帯農業の実習にフィリピンに潜り込んだ時に2か月間のフィリピン、ネグロス島の実習が終了したあと、フィリピンの南に位置するミンダナオ島の農場に移動しました。
あのころのミンダナオはモロ民族解放のゲリラ戦が政府との間で行われているところで、日本人の誘拐があったりして日本人の渡航は非常にやばい農場地なのでした。この問題さえなければ、セブ島に続くまったくもって美しい島なのでした。
実際、毎週日曜日農場の仕事が休みなので、朝は、納得行くまで寝坊、午後から街に出て、一杯のビール(サンミゲル)と地鶏の一匹丸ごと焼きを食べるためにお登さんをするのが大体の日曜日でした。
たまには映画館に入って、よく解らないタガログ語を聞きながらお昼寝がこれまた楽しいひと時だったように思います。ある日の日曜いつものようにいつものパターンで映画でも見るかの方向に傾いた時、映画館が閉鎖の情報が入りました。なんだなんだと聞いてみると先週の日曜日に爆破されたのこと、モロ民族解放員の誰かが爆破物を置いて逃げ去り、その爆破物で映画館が吹っ飛んだとのことでした。
たまたま先週の日曜日は、ソフトボール大会のためにいけなかったのが幸いで命拾いだったのかもしれません。。暇なもんで2回に一回は、映画館に入り昼寝をしていたので、ラッキーの一言で収まりました。その当時は、そんなことが日常茶飯事でしたので、別にの気分なんですが、日本に帰ってひと段落ついてふと考えるとやばいとこにいたんだなと思う私でした。
農場の仕事は別にきつくもなかったように思います。牛のふんを素手でかき回して堆肥にしたり、稲作の手伝いをしたり責任のない気楽な立場で言われた仕事を遂行していだけなので楽しいことだけが思い出に残る日々だったようです。
ある朝、早く何気なく起きて田んぼに行くと池田さんが田圃を見回っているのでした。一人哲学者のように両腕を後ろに回してゆっくりこれまた楽しそうに歩いているのでした。おはようございます。と声をかけると優しい声でおはようが帰ってきました。毎日、朝早く一番に起きて田んぼを見回ることが池田さんの日課だと教えられました。見回りながら稲の発育状態を観察して今日の仕事の段取りを考えるとのことでした。
都会育ちの自分が憧れだけで、できる仕事じゃないと無言で教えられたのがこの時でした。また池田さんの開口一番の一言、農業好き、この言葉に私は判りませんと素直に答えたのでした。今の指圧業界に入り、指圧好きと生徒によく聞きます。好きじゃなくちゃできないのです。また好きな仕事をすること、また選ぶことが出来ることが本当のプロになれる条件の一つなのです(もちろん後でずーっと後で気が付きました。)。
池田さんの田んぼを見守る後ろ姿にこの仕事(農業)は俺が耐えられるような生半可な仕事じゃないと悟ったのがこの時でした。あの後ろ姿が今でも夢にまで出てくるのは、アマちゃんの自分を言葉なしで完璧にギャフンとKOさせてくれたことへの池田さんへの私の心からの感謝なのかもしれません。ご冥福をお祈りいたします。