ふるさと

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実家の隣は、今一軒家が2棟とマンションが建っています。まだ自分が子供の頃、この場所に大谷木工所という家具を作る製作所があったんです。また国道16号線の一角に大宮家具センターという家具屋があったことを知っている住民は、ほとんどいなくなったように思われます。大宮駅の西口には、さすが鉄道の街ってか、鉄道員の家族の官舎があって、まったく開発手つかずの状態で、駅から自分の家まで歩いて10分の距離なんですが、まだまだ田んぼがあり学校帰りに田んぼの中を歩き回り、小さい穴を探しては、ザリガニを取って遊んだこと覚えています。

 東口は、高島屋があってボンボン開発が進む中、西口は、駅前の立ち退きが、ぼつぼつ始まって,そごうデパートができるはで、少しずつ私が帰るたびに変わっていき、駅前の小学校、中学校の同級生が、みんな立ち退きでいなくなって、帰ってきても餓鬼友達がみんないなくなりました。ネットでの消息探しで、自分を探してくれる輩もいるのですが、久しぶりで会って、なんでスペインという、挨拶から始めなくちゃならないので、ちょっと引いてる自分がいます。会いたい気もする一方で、思い出だけでとどめておきたい気があるのも事実です。
 複雑な心境の中、昔仲間と、じっくり会うのは、まだ早いような気がして、まだまだ現役を意識している自分が一方では確かにいるのでした。
 同郷の仲間は、現役引退が多く、ぶらぶら人になっているのが多いみたいで、結構つるんでは、ソフトボールをしたり、カラオケで大合唱だったり、居場所のなさを団結力でカバーしているみたいです。
俺はまだ忙しいんだと強調しても、ジャー帰って何やっているんだいといわれると、そうね、浅草行って、裏道を歩き、へ―こんなのまだ残ってるんだと感心したり、東急ハンズで時間をつぶしたり、帰るたびに変わってゆく東京をただただ呆然と、感じる日々なのでした。ただ路地裏を歩くと置き忘れた昭和がまだ残っていたりして、東京再発見には確かに時間をかけています。これも爺の思い出探しか、はまっているのも確かなのでした。
 実家にお袋がまだ健在で、私のいる場所を確保してくれているので、東京での用事を過ごすと電車に揺られて大宮に帰るのでした。帰国するたびに電車の行き先や電車名が変わって、この電車で帰れるのかとおどおどの自分がいて、誠に滑稽なのでした。スイカを使うのも初めはドキドキした田舎者がここにいるのでした。
 帰国したら日課として、実家までの帰り道にある、今にも壊れそうな建物で、どうにか営業している、だんご屋が兄貴の同級生ということで、店に必ず立ち寄って、だんごを買って家に持って帰ってお袋と食べるという習慣だけは今でも残っています。茂ちゃん帰ってんだ。お袋さんまだ元気なんだってね。今日はこれサービス。こんな会話を毎回ワンパターンでやっているのでした。その店、後継者がいないということで、いつまで続くかとのことでした。また昔からあるクラブ活動後にいつも通った満々亭、台代わりして知ってる人が誰もいないけど,端に座って、餃子とニラレバ炒めを黙々と食べて、帰りに餃子を2人前注文して家に帰るのが、日課なのでした。国道17号線の交差点の日進湯も風前の灯。皆消えてゆくのが、開発という時代の流れなのでした。
家路のルートを変えて、ここに誰が住んでいた、ここに何何があったと思いで浸りも、帰国時の楽しみの一つといえば、爺になった証かもしれません。
 この大宮の西口も、私の子供の時代に比べれば、月と鼈です。人、人、溢れかえる人の波です。しかし開発という名の立ち退きで、私の友は、ほとんど駅前の繁華街ブロックにはいません。あの駄菓子屋のばあさん、自転車でいつも飛び回っていた、我々のヒーロー鉄くず拾いのタケちゃんも、もちろん今はいません。パチンコ屋の跡取り息子のあの悪ガキも北海道に行ったらしく、今では、駅前のあのパチンコ屋も、チェーンの薬局屋になっています。
 どこにでもあるビルが立ち並び、忙し気にスマートフォンという友達と話しながら歩く人々、ユニクロがあって、どこにでもある店があって、皆んなつまんなそうに飯食って、家路に帰るだけの町そうです都市近郊のベッドタウン大宮なのでした。何の魅力もない大宮になってしまいました。しかし、一様ここが私の生まれ故郷です。

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